おりょ工房

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「世界はメタファーだ」


村上春樹さんの新刊「猫を捨てる 父親について語るとき」の読書感想文です。

「メタファーを通して世界は物語になり歴史になる」
当初の文藝春秋での副題が「父親についてを語るときに僕の語ること」であるように父親についての事実を語りつつ、メタファーを通してより大きな物語を語っている(「走ることを語るときに僕の語ること」と同じ構図です。)

ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」「騎士団長殺し」の中で断片的に語られた「戦争」「父親」「歴史」

村上さんの言いたいことを私は次のように理解しました。
出来事→イデア→メタファー→物語→歴史
もう少し詳しく説明すると以下となります。
現実→感じる→個々の事実→個々の物語→誰かに伝わる→誰かの物語→その集合体としての歴史

『自己と客体との投射と交換』(海辺のカフカ
『パシヴァとレシヴァ』(1Q84)
の記述がありますが、私の解釈は以下になります。
出来事に対する個人の感じ方があり、その感じたことを伝えることが物語になり、歴史になります。正しい歴史を作るためにも個人が正しく物事を感じることが大切です。正しくない物語による正しくない歴史が作られることを防がなければいけません。

そして一番大事なことは「出来事」「現実」をしっかり見て感じること。
風の歌を聴け』(風の歌を聴け
『しっかりと目を開けるんだ』『絵を眺めるんだ』『風の音を聞くんだ』(1Q84)

現実を深く鋭く感じて、強い物語を作り、正しい歴史を作る。
そういう村上春樹さんの世界を私は支持します。

村上春樹は何故、メタファーを多用するのか?』
事実を直接メッセージとして述べるよりも、文章の裏に隠れている意味を自ら感じ理解する方が、より深く内容とコミットすることができるからだと思います。
「説明しなくてはそれがわからんというのは、つまり、どれだけ説明してもわからんということだ」(1Q84)

本作品の中での下記のエピソードは事実の記述しているようでメタファーでありもっと大きなことを言おうとしています。
・猫を捨てる、猫が戻ってくる、ほっとする
・猫が高い木に登ってそのまま消えてしまう

しかし多くの作家がメタファーの道具として「猫」を使うのは面白いですね。

以下のエピソードも同じ構図です。
・千秋さん(秋と春で春樹さんと対極)が丁稚に出される、戻ってくる、ほっとする
・千秋さんが手違いで戦争に行く、壮絶な体験をする、無事に帰ってくる
・千秋さんが戦争に行く、すぐに戻される
・弁識さん(音が免色さんに似ている)が養子に出される、大きなお寺の住職になる。
村上春樹も親から捨てられるまたは親を捨てる、回復する
夏目漱石が養子に出される、戻ってくる

これらのエピソードの私の理解は以下
不条理な大きな力で人の人生(猫の人生)は変わる。どんな理由であれ、結果が全てを凌駕する。あらゆるものは大きなうねりに流される。

・猫が高い木に登ってそのまま消えてしまう
・象が突然消えてしまう
・すみれが消えてしまう
・直子が突然自殺する

これらのエピソードの私の理解は以下
自分にとってものすごく大きかった存在が突然消えてしまう
その大きかった存在は、誰かの記憶の中に残り、語り継がれ、歴史という大きなうねりになる。

「時代のうねりに流されるのが人間、うねりを作るのも人間」

村上春樹さんは個人的な「喪失と再生」の物語を書き続けることで普遍的な「総合小説」の作家に進化したが、本作品でそのルーツがわかった気がする。

『本書の印象的なセリフ』
「我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない」
「一滴の雨水には一滴の雨水なりの思いがある」
「一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくと言う一滴の雨水の責務がある」